関連組織の紹介


「日本・木浦圏交流ネットワーク」

 2010年3月26日、韓国・木浦市において「日本・木浦圏交流ネットワーク」を発足した。
 ネットワーク発足を機に、50余名の訪問団が日本全国から集まって、木浦市を訪問し、木浦大学総長、木浦市長、全羅南道知事、木浦商工会議所会長などと面談し、今後の交流について話し合った。訪問団は木浦共生園、旧日本領事館、東洋拓殖会社木浦支店などを見学する一方、高麗青磁の産地の唐津、日本に千字文などを伝えた王仁博士の史跡も訪ねた。木浦では、ふぐ料理、アワビ料理、新鮮な魚の刺身など、短期間で中々経験できない海の幸は、参加者一同感激、感動の連続であった。木浦市や全羅南道の心温まる歓迎ぶりであった。東アジア政経アカデミーと「日本・木浦圏交流ネットワーク」は、並行して活動するよていである。今後は、産業視察、芸術の旅、食べ歩き、女性のためのエステツアーなどテーマ毎に訪問団を募集して、木浦圏に送り、木浦市や全羅南道、周辺市・郡などと交流を推進する。


(「日本・木浦圏交流ネットワーク」の趣意書)

 近代朝鮮の5大都市・3大港のひとつだった朝鮮半島西南端の港町・木浦。

 福岡、長崎、大阪など日本の港と、上海港など中国大陸との中間地点に位置していることから、寄港地、貿易港としても脚光を浴び、日本政府が領事館を設置し、数多くの日本人が移住するなど日本とは深い関係を持ってきました。

 1920年には東洋拓殖株式会社が木浦支店を開設するなど、多くの日本資本が木浦地域に流入され、1942年の木浦人口7万2千名のうち、日本人が8千名にのぼっています。

 こうした歴史を背景に、木浦には今も、旧日本領事館、東洋拓殖株式会社木浦支店、湖南銀行木浦支店、東本願寺木浦別院、木浦公立尋常小学校(現在の儒達小学校)など植民地時代の建築物の多くが歴史的な文化財として保存され、日本人家屋も多数残っています。

 また、木浦近くの霊巌には、応神天皇の招聘を受け百済から論語や千字文を日本に伝え、飛鳥文化の祖といわれた王仁博士の史跡があります。慈覚大師圓仁の求法の旅を支援し、新羅・唐・日本を結んだ東アジアの海上貿易王・チャンボゴの生まれた莞島もこの地域にあり、朝鮮戦争で父母を失くした3千人の孤児を育て上げた田内千鶴子さんの社会福祉施設の木浦共生園があり、また、日本を訪問し、時の小渕首相との間で、未来志向の日韓関係を宣言し、自由と人権、民主主義のために献身し、ノーベル平和賞を受賞した金大中元大統領の地元として、地域全体が日本と深いかかわりをもっています。

 かつて木浦は、栄山江下流に位置する、半島内陸部と沿岸を結ぶ交通の要衝として、また、海運の要路として栄えてきました。しかし、戦後、中国大陸との交通が遮断され、60年代以後、国土開発の主軸から疎外され、開発に出後れていましたが、2000年代に入ってから、中国経済の急成長と国民経済規模の拡大によって港湾機能が蘇生し、都市の活力が戻ってきました。

 木浦には文化施設、観光施設が散在し、美しい自然が残り、豊かな海の幸にめぐまれて、周辺の海から入ってくる新鮮な海産物は木浦の珍味でもあります。また、木浦近辺には、高麗青磁の産地として有名な康津、現代版モーゼの奇跡と言われる「神秘の奇跡」(海割れ)の珍島もあり、多島海の自然である海の光景は限りなく広がっています。

 こうした多くの資源をバックに、国際海洋観光地域として発展しようとする木浦圏の各地方自治体では、日本の資本と経験、そして観光客誘致に努めています。

 日本と木浦との間には、過去の歴史を超越して、両国間で経済的な相互依存関係が深化し、同時に文化交流および人的交流が広がりつつある中で、相互理解に基づく市民ネットワークによる交流の拡大がますます必要となっています。

 歴史的にも、地理的にも、また、人的往来においても日本と最も関係の深い木浦圏との市民レベルの交流を深化し、生産性のある交流拡大を始めようとするのがこの会の趣旨であります。

 皆さまの賛同、ご参加をお願いします。

2010年3月
「日本・木浦圏交流ネットワーク」理事長・永野慎一郎